エフィルレーン暦 975年 花幻の月
第一話『桜祭り』―1―
そよぐ風が顔を出したばかりの草々をゆらし、次いで丘の上にそびえ立つ巨木の梢をざわざわとかき鳴らす。その木の下でのんびりと読書に興じている1人の青年がいた。
ちょうど若芽が一斉に吹き出したそこは、ほどよく陽の光を遮る葉のおかげで何をするにも絶好のポジションであるのだ。
暑くも寒くもない気候。その上、聞こえてくるのは小鳥のさえずりと風が奏でる調べのみ。
時折、いたずらな風が彼の長い金の髪を、本のページを揺らす以外はただ、静けさが満ちていた。
ふいに、その静けさが破られた。
誰かが近づいて来たらしく、風に乗って声が聞こえてくる。
どうやら、この青年を呼んでいるようだ。
「お〜い、ブロント〜」
「お兄ちゃ〜ん!」
ぱたぱたと軽い足音を立てて丘を駆け上がって来るのは二人の娘だった。
1人は熟れた果実を思わせる紅の髪と鮮やかなエメラルドグリーンの瞳を持つ気の強そうな娘。そして、もう1人は、豊かに波打つ青年よりもやや淡い金髪の髪と春の空のような青い瞳を持つ少女であった。
その二人の姿を確認すると、青年は口角を少し緩めて本を閉じた。
「そんなに慌ててどうしたんだ?」
二人は同時に溜息をついた。
紅い髪の娘、マゼンダが腰に手を当てて呆れた様に首を振った。
「もう、やっぱり忘れているのね」
「えっ?」
今日何かあっただろうか?
眉を寄せて考え込むブロントを見て、もう1人の娘、ファリアはくすり、と笑った。
「ふふ、お兄ちゃんったら。今日は桜祭りの日よ」
一緒に行こう、って約束してたじゃない。
ブロントは微かに顔を引きつらせた。
しまった。今日だと言う事をすっかり失念していた。
桜祭りというのは、毎年、桜がちょうど満開になった時に隣町のラグーナで行われる祭りの事だ。そこそこ盛大な祭りなので、毎年多くの人が遠くからもやってくる。普段、コレと言うものの無い町では稼ぎ時でもある。
「ほら、ボーッとしてないで早く行くわよ!」
マゼンダが急かした。
ブロントは、はいはい、と返事をしつつ立ちあがった。
が、ふと何やら違和感を感じて辺りを見回した。
…………ブルースがいない。
一体どこに行ったのだろう。
「おい、ブルースはどうしたんだ?」
てっきり、ぼんやりしているのは自分だけだと思っていたが、違ったのだろうか。それならそこまで罪悪感を感じずにすむのだが……。
マゼンダは、一瞬、きょとんとしたがすぐに、ああ、と頷いた。
「あれ? 言ってなかったっけ? ブルースは昨日から狩りに行ってるって聞いてるわ」
「聞いてないぞ、そんなこと……」
思わず、憮然としてしまう。
彼が狩りに出かけると、咲いていでも2〜3日は村へは帰ってこない。
もし、今日の桜祭りについて彼が知っていたのだとすれば、彼は行きたくなくて逃げた事になる。何故なら、女の子を二人連れて、まさに両手に花、と言いたいところであるが、当然、付き合わされるのは買い物。荷物持ちになる事は必須である。ブロントは胸の中で密かにブルースを呪った。
むぅ、としたまま動かないブロントの袖をファリアが引っ張る。
「お兄ちゃん、早く行きましょうよ」
「あ、ああ、そうだな。行くか」
近年、ファーレンではモンスターの数が異常なまでに増えていた。それは、時に人々に街道を歩く事を恐れさせるほどであった。
しかし、ラグーナは、そんな事も関係無い、と言わんばかりに、例年どおり多くの人々が詰めかけていた。
「うわぁ、相変わらず人が多いわね。ファリア、急がなきゃ!」
「はいっ!」
「あ、おい。ちょっと待てよ!」
ブロントの制止の声も聞かず、二人は駆け出した。
ブロントは、あまりの人の多さにその動きに対応しきれなかった。
「――ったく。桜祭りだって言うんだから、桜を愛でてりゃそれで良いだろうが」
遠くから見ていると町一面にぼんやりとうす桃色の霞がかっているように見えるほど見事な桜。近くで見ても、雪のごとく舞い降りるそれは変わらないのに、どこか存在感があった。
それを振り仰いでブロントはぼやいていた。
「全くどこへ行ったんだか。仕方ない、探すか」
「おじさ〜ん! これ、いくら?」
人の波をかき分けつつ、二人はブロントの気など全く知らずに広場に出された露店で楽しんでいた。
ん? と言ってやって来た主人は二人を見て破顔した。彼は、アクセサリーなどを一般に扱う商人だった。カーティス村の女の子はラグーナまでお使いに来た時には必ずと言っていいほど彼の店によって行く。と言うのも、彼は、どんなに小さい子供でも「お客」として扱ってくれるからだ。他の店では追い出されてしまうと言う事もあって、静かな雰囲気の他の店とは違って、彼の店はいつも賑やかだった。
マゼンダとファリアも嫌がるブロントとブルースを引き連れて良く訪れていたのだ。
「おお、マゼンダにファリアじゃないか。随分と久しぶりだな。……ほぅ、なかなか良いものに目をつけたな」
マゼンダが手にしていた銀の指輪を見て主人は唸った。
それは、銀が蔓草のように優美なラインを描き絡みあっていて、そこに細やかな細工が施してあるものだった。石は小さいがきめが細かく、透き通った黄色である。それでも、全体的に華奢な印象を受けた。
「あ、はい。お久しぶりです」
「ええ、しばらく忙しかったの。……っと、顔なじみなんだし、勉強してよ、ね?」
にっこり、と無言の圧力をかける。
こう言う時にはとても良い武器となるのだ。
主人はがしがしと頭を掻いた。
「おいおい。これでも祭り用に破格の値段で提供しているんだぜ?
普通なら2000ピア以上するところを1000ピアなんだ。 これ以上安くするのはムリだな」
ピアと言うのはこの国のお金の単位だ。
ちなみに、モンスターを倒すとリオンと呼ばれる鉱物を手に入れる事ができる。これは1リオンあたり5ピアに換金される。あと、1ピアは10円程度の価値である。
「それにこの指輪は、守りの指輪といってちょっとしたバリアを張る事もできるお守りの指輪なんだ」
さて、どうするね、と主人は振った。
マゼンダはう〜ん、とこめかみに指を押し当てた。
「1000ピアはちょっと高いな……ね、もうちょっと安くならない?」
「ふむ、いくらなら買う?」
「500ピア」
主人は大仰に天を仰いだ。
「おいおい、店を潰す気かい?」
「まさか。 でも、お金のない女の子から、優しいおじさんがお金を巻き上げたりなんてありえないわよねぇ、ファリア?」
「わ、わたしに振らないで……」
主人はぐっと言葉に詰まった。実際そんな事は無くとも、マゼンダの言葉にはどこか説得力があった。
「ううむ。900ピアでどうだ?」
「500」
なおも固執する。
たらり、と主人の首筋を汗が伝った。
「いくらなんでもそれはないだろう……」
ファリアは、その後もポンポンと歯切れ良く会話を続けていく2人を交互に見ていた。
が、どうも、主人はマゼンダには敵わないようだ。段々追い詰められているのがはっきりと分かった。
(あはは……おじさんも敵わないのね)
何時果てるとも知れぬ値切り争いに、ちらほらと見物の輪ができはじめている。
良い宣伝になっているようだ。
ひょっとして、店主はこれを見越しているのだろうか?
ファリアはふとそんなことを思った。だとすれば、店主の商才もなかなかのものだ。
しかし、一体どれくらい続くのだろう。マゼンダを見ていると、本気で値下げしよう、と言うよりもむしろ、交渉を楽しんでいると言う風である。
ファリアがそう思案し始めた時だった。
「くぅ〜……750ピアではどうだ?」
「買った! どうもありがとう」
マゼンダがにっこり笑う。
思ったよりあっさりと勝負はついたようだ。
買った、が勝ったにも聞こえるのだが。
「まったく……マゼンダには敵わんな」
人の良い店主もやれやれと肩をすくめながら笑っていた。
「またいつでも遊びに来なよ」
「ええ。イヤだといわれてもまた寄らせてもらいますから」
「はい。今度はお兄ちゃん達と一緒に来ますね」
「おう。じゃ、年に一度の祭りだ。こんな所で時間食ってないで楽しんできな」
二人は店主に軽く手を振って別れを告げると、見物人の間を縫うようにして輪を抜け出した。
「ん〜ん、やった、やった」
マゼンダはしごく満足そうにのびをした。
「ふふ、良かったですね」
「本当にね。さてと、じゃあ、次はファリアに付き合うわ。 どこか行きたい所でもある?」
「ええっと、そうですね……」
ブロントのことなど思い出しもせず、楽しげに歩を進める。
突如、薄桃色の桜の花びらが舞う中に真っ青なかたまりが見えた。
「な…こいつ、スライムじゃない」
「でも、どうして町の中に……」
本来、スライムは人を嫌う。町の中に現れることはまずありえない。
その上、今は祭りの真っ最中だ。
困惑しているファリアを尻目にマゼンダは、炎の書を取り出した。
「そんな事考えてたってしょうがないわ。ええっと、呪文は…『猛き炎を司る精霊神ザールよ』……」
ファリアは詠唱を始めたマゼンダの腕を押さえた。
「ダメです!ここで炎の魔法を使ったら……」
「止めないで」
「もし、火が桜に燃え移ったら大変なことになってしまうわ。だから……」
これ以上、この場を混乱させるわけにはいかない。
マゼンダは唇を噛み締めた。
「全く…こんな時にブロントはどこにいるのかしら」
彼ならば、この場を納める事ができるだろうから。探しに行くべきだろうか。
「――ここにいる」
ようやく見つけたと言う安堵で微妙に気の抜けた返事を返しながら、ブロントは躍り出た。
素早く剣を解き放ち、薙ぎ払う。スライムは打撃に強い。ぷよぷよしたゼリー状の身体が衝撃を吸収するのだ。しかし、中の核を傷つけられればそれまでだ。
ブロントは一撃目で仕留め損ねたスライムに向かって構えた。ブロントを標的としたからには、町の人に危害が及ぶ事はないだろう。
とにかく、慎重にする事だ。
「お兄ちゃん、後ろ!」
反射的に後ろを振り返る。
「なっ―――!」
スライムがもう一匹。
油断したな。ブロントは舌打ちをした。
どちらを先に倒すべきか―――?
ひゅうっ、と何かが頬をかすめた。
見ると、スライムには矢が刺さっている。
「ブロント、助太刀するよ」
弓を構えた青髪の青年、ブルースが言った。
「助かる」
「わ〜、2人とも絶妙のタイミング」
手持ち無沙汰のマゼンダが呟いた。ファリアがぱちぱちと手を叩く。
戦闘中とは思えないほのぼのとした光景に、ブロントとブルースは脱力を感じた。
「……戦闘前にこれじゃさすがにヤバいだろ……」
「ははは……」
ブルースが乾いた笑いを浮かべた。
とにかく、気を取り直していかねばなるまい。
2人は顔を見合わせ、頷いた。
「ふぅ、これで全部か」
「うん、大分、矢を消費してしまったよ。補充しておかないと」
「うう……粘液がべっとり張り付いてるぜ。これじゃあ手入れが大変だな」
これだからスライムは嫌いだ、と溜息をこぼす。
食料にもならない、刀のサビだ。
彼らはざっと辺りを見回した。街を訪れていた旅行客の中には武術の嗜みを持つものも多く、被害は思ったよりも少なそうだ。一番大きな被害を受けたのは、炎の魔法で撃退したものがいたのか、焦げている桜だろうか。
「……ファリアが止めてくれなかったら、私が引き起こしてたかもしれないのね」
助かったわ、と胸をなでおろす。
「それより、ブルース。お前、狩だとか何とか言ってなかったか?」
「うん、そうだよ。ただ、獲物を追ってきたらここに辿り着いたんだ」
「……なるほど。道に迷ったわけじゃないんだな?」
ぎくり、とブルースの肩が揺れる。
「ははは……やだなぁ。そんな訳ないじゃないか」
笑い声が棒読みだ。
やはりそうか。
ブロント達はちらりと目を見交わせ合って笑いをかみ締めた。
「――怪我人が多いようですから、回復した方がよさそうですね」
話題を変えよう、とばかりにファリアが愛用のフルートを取り出した。
マゼンダが拍手する。その時ブルースが示したあからさまな安堵の表情にブロントは笑いをかみ殺した。
ゆるやかに、澄んだ音色があたりを震わせた。
淀んだ空気が一掃され、清涼な風が吹き込む。
風に乗って、ふわり、と現れた小さな光の粒が人を、傷を癒してゆく。
心に降り立ち、晴れ晴れとさせてくれる。
人々は息を呑んだ。
回復魔法がこのように広範囲で、しかも、呪文と言う形でなく音楽と言う形で行われるのは見た事がない。
一体これは………。
ファリアが演奏を終えた時、人々の顔に笑顔が浮かんだ。
2006年4月20日 掲載
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